エリック・ケッセルス

最近興味を持っているのは、緻密に計算された完璧なクリエーションばかりの世の中で、魅力的な間違いを探すこと。懸念していることは、社会の不寛容化
(エリック・ケッセルス)

ちょっと不思議なユーモア感覚と過激なメッセージで、記憶に残る伝説の広告を作り続けるクリエーティブエージェンシー「ケッセルス・クラーマー」。その主宰者エリック・ケッセルス(1966)は、広告制作のほかにも展覧会の企画や出版も手がけるマルチクリエーターである。

「In Almost Every Picture 」は、エリックがネット上や蚤の市などで見つけた写真をまとめた写真集シリーズ。先頃8作目が出版された。毎回、発見と驚き、そしてどこか居心地の悪い笑いを呼び起こすフォトディレクションで反響を呼んでいる。
シリーズ第一弾は、1956年から1968年にかけて撮影されたあるスペイン女性の記念写真的なポートレート集だった(写真下)。バルセロナの蚤の市で購入したという、きれいに箱詰めにされた何百枚ものスライドをプリントしてまとめた。世界中でこんな写真を見つけては購入しているという彼のコレクションは、今や倉庫が破裂するほどの数だという。
そして新作となる8冊目は、日本人ブロガー芥川浩典氏とのコラボ。ウーロンという名のウサギの写真集である。

In Almost Every Picture 1


1956年から1968年にかけて撮影されたあるスペイン女性の記念写真的なポートレート集

インターネット時代で生まれた、写真の民主化

(以下、E=エリック、Y=ユイの雑談インタビュー)

E:芥川さんは3年くらいの間、ペットのウサギの頭の上にいろんなモノを載せた写真をブログに掲載していた。
知り合いから「面白いブログがある」と教えてもらって、毎日楽しみにチェックしていた。このブログがスタートしたのは1999年。使っていたカメラも初期のデジタルカメラで画素数も少ない。でもすごく面白いアイディアだよね。ウサギの頭に意味不明なオブジェを載せて、毎日写真を撮り続けるなんて。それを何年も続けることで、不思議な文脈が生まれてる。
このブログを見た時、インターネット時代の中で誕生した「写真の民主化」を予感したよ。彼は、一般の人が自分の写真を世に向けて発表する「ブログ」という新メディアの先駆者と言える。ウーロンは2003年に永眠するんだけど、それによってカタログ的に撮りためられていた写真が歴史を綴る「記録」に変身する。ウーロンの死後しばらく時を置いて、ブログを更新していた年月を俯瞰する感じで写真集を出すというのも面白いと思い、今回出版した。

Y:でも、このような面白いブログに出会うのって、今の時代、至難の業なのでは?

E:今日のネット上って、ある意味巨大なゴミ箱状態で、本当に興味深いものを発見するのは難しい。でも幸い友人知人同僚のいいネットワークがあるので、それらを駆使して積極的におもしろいものを探している。
そんな中で最近強く感じてることがある。それは、世の中が「完璧なもの」に埋め尽くされていること。気がつくと、一昔前までの「ちょっと失敗しているけど、それも愛嬌でいいっか〜」みたいなクリエーションがなくなってる。

Y:何が原因だと思う?

E:最近のクリエーションって、コンピューターやテクノロジーと連動しているでしょう?だからそういうことにすごく長けた若いクリエーターが力を発揮する時代でもあるよね。彼らは技術をばっちり身につけて世の中に出てくる。まるでコンピューターみたいにね(笑)。早熟で、若いうちから「完璧な仕事」が染みこんでいるから、完璧なモノばかりを次々と作り、ミスにすごく敏感。ちょっとでも間違いがあるとボツにする。そうしているうちに、モノって完璧であるべきという「完璧ボケ」に陥る。でもそれって、一種のプロパガンダだと思うんだ。 家族アルバムですらそんな「完璧崇拝」に侵されてきてる。きちんときれいに画角に収まるように並んで、みんなで完璧なスマイルをつくる。別に発表したり他人に見せるものではないんだからハチャメチャでもいいはずなのに。そういう写真のほうが、後で見返して何倍も楽しいよ。こうやって「ミス」とか「めちゃくちゃ」が世の中から消し去られていくのって、すごく退屈な展開だよね。

Y:「完璧」な世界はつまらない?

E:ちょっと例えは古いけど、60年代に建築家がオフィスのインテリアデザインを手がけるようになった頃、彼らはオフィス用家具の「文法」をほとんど理解しないままにデザインしていた。メーカー側もそのデザインを見て「これをどうやって作れっていうの?」と頭を抱えたりして。
でもそれまで「間違い」と言われていた要素を含むものって、見ていて新鮮。時に新しい価値観や発見を生み出すし、真に新しいものの誕生の契機にもなる。
そんなわけで、最近積極的に「間違いのあるもの」を探してます(笑)。

そういえばさ、僕には子供が3人いるんだけど、彼らが鼻血出してたり、転んで目の周りに青タンつくってたりすると無性に写真を撮りたくなるんだよね(と、写真集「think」を見せる)。これ、「完璧の追求」の真逆の欲求、そして「間違い」への偏愛の賜。人に見せると、「なんでこんなへんてこな顔の写真を撮るんだ?」と笑われたり、「子供を虐待しているのかっ!?」って怒られたりもする。でもそれって、驚きや発見が、見る人の感情を動かし、リアクションを喚起してるってことでしょ。メディアを通してコミュニケートするって、そういうことだと思うんだよね。ハッとしたあとに、個々の感想や感情、あるいは考えがついてくる・・っていう。「へー、きれい」「あら、かわいいー」と、記憶にも残らずに通り過ぎていくようなモノに、魅力はないよ。

不寛容な社会

そんなエリックが、「もうひとつ、最近すごく気になっていること」として挙げたのは、不寛容になっていく社会だった。勿論オランダだけの話ではないけれど、長引く不景気と共に極右へと向かい出す社会の風潮を、彼は懸念している。そんな中で、大きな影響力と発言力を持つクリエーターとして、「自分にもできることがある」と言う。

E:不寛容へと向かう社会にもの申すチャンスは、仕事上でも積極的に探している。例えば、オランダの携帯電話ネットワーク「Ben」の最近のキャンペーンでは、黒人の移民の少年をモデルにして、「Ben welkom」(ベン・ウェルカム)っていう広告を作った(*注)(下写真左)。
これは「Ben」のネットワークにウェルカムっていう意味と、「(I)am welcome」(私は歓迎されている)っていう2つの意味をかけている。移民が追いやられる風潮に対する皮肉の意味も込めてね。これは大きな反響を呼んだよ。
(*注:「ben」は英語の一人称動詞「am」と同義であると同時に、一般的な男性の名前でもある。それを携帯電話のネットワーク名にし、一般の人々をモデルにした写真でキャンペーンを展開した)

少し前のSNS銀行のキャンペーンでは「こんな方法もある」というキャッチで(上写真右)、今までとは根本的に違う発想で問題を解決することを表現した。「この銀行は革新的な解決方法を提案しますよ」ってね。その解決方法は、仇同士の間にも和解を生み出すほど有効だと言う意味を込めて、敵対する者同士が和解のハグをするシーンを使った。ネオナチ風の男とアラブ系の男、犬猿の中で知られるサッカーチーム「アヤックス」と「フェイエノールド」のサポーターとかね。これも極化して対立ばかりが生じる世の中に対して、「不可能を可能にする」場面を提示するものだった。
こんな風に、社会に蔓延する空気にしっかりと抗議するような広告作りは、これからも積極的にやっていきたい。

こんなキャンペーンを作れるのも、クライアントと対等で良好な関係を持つケッセルスクラーマーだからこそ。
これからも、引き続き、私たちを驚かせ続けてください!

取材後記

エリックがよく古い写真やアルバムを買いに行くというブリュッセルの蚤の市に、用事があって行ってきた。
身より無く亡くなった人の家財道具が一切合切売られるような、煩雑な市場だ。
私も彼の真似をしてアルバムを一冊購入してみた。調べてみると、それはベナン共和国の「La Croix de Dahomey」という新聞の編集長をしていた人のものだった。売っていた怪しげな青年にいくらかと聞いたら、中身にざっと目を通した後「これは政治関係の人のアルバムだから20ユーロ」とふっかけられ、「じゃあいらない、高すぎる」と言うと、あっさりと10ユーロに。

見知らぬ人の人生をのぞき見るような、不思議な気分になる。

ポートレート写真 ©studio frog (kiyomi yui)