今年もシンタクラースがやってきた!

今年もシンタクラースがやってきた。

毎年この時期になると、大勢のくろんぼの家来「ズワルト・ピート」(ブラック・ピート)を引き連れて、スペインからやってくる。
恒例の子供のお祭りなのだが、今年は少し様子が違った。

近年、この時期が近づくと毎年のように「ズワルト・ピート」論争が起こっていた。「ズワルト・ピートは、奴隷でしょう?それって人種差別なのでは?伝統とは言え、そろそろ再考し直すべきなのでは?」という声が、高まり始めていたのだ。
けれども、寛容の国の住人として、これまで十分に移民を優遇してきたという意識が強いオランダ人の多くは、「差別などするはずがない。これは伝統で、小さな子供達の大切な行事。おまけに、ズワルト・ピートが黒いのは、煙突掃除ですすを被ったから」と、頑なにこの訴えに背を向けてきた。多くのオランダ人にとって、シンタクラース祭だけはアンタッチャブルな聖域だったのだ。
TVのトークショーなどでも繰り返し話題になっていたけれど、番組としても、どちらかと言えばこれらの訴えを「ナンセンス」とかわして、ムキになる黒人パネラーにあきれ顔を向けていた。
でもそのやり方が、通用しなくなった。

これまでにも何度か行政に対してズワルト・ピートのあり方を考え直し、奴隷の子孫たちである黒人オランダ人や、その他の黒人新市民の心情を考慮するよう請願書を出していた政治家などが、全く改善も見られないことに憤りを抱いて国連に訴えたのだ。
国連の人権委員会は、ズワルト・ピートは植民地政策や奴隷貿易の過去を引きずるもので黒人差別である、サンタクロースがいるのに、なぜシンタクラースを祝うか。この祭り自体を廃止するべき、とオランダに対して抗議をした。
これを受けて、この秋は、トークショー、討論番組、そしてさまざまなニュースでズワルト・ピート問題が大燃焼した。

確かに、小さな子供たちのヒーローであるズワルト・ピートを、突然なくしてしまうのは難しかったかもしれない。だが、聞けば何年か前の子供番組の中で、「蒸気船で海を旅している間に虹の下を通ったら、ズワルト・ピートたちが虹色になった」という設定で、黒くないピートを登場させようという試みがあったらしい。けれども、「カラフル・ピート」案は大人たちに評判が悪く、あっけなく消えていった。

そして今年。アムステルダム市は、ズワルト・ピートを無くしはしないけれど配慮すると発表。いわゆる「土人」を連想させる大きなイヤリングをつけるのはやめる、ということになったらしい。確かに今回、あまり見かけなかった気もするが、こんなことは焼け石に水だ。

ダム広場横には、ピートに対する抗議をする人々が集まった。みんな「ズワルト・ピートは人種差別」などのスローガンが書かれたT−シャツを着て、シンタクラースの行列が前を通ると、彼らに背中を向けてその意を示した。

伝統を守りたいと主張する人たちが、もう少し早く話し会いのテーブルについていたらよかったのでは、と私は思う。
「なくせ!」「残せ!」のどちらの言い分にも一理あるように思えたし、同時にどちらのトーンも常軌を逸しているように見えた。
それ以前に、黒人市民の「差別されていると感じる」という訴えにまともに耳を貸さずに無視し続けた態度のほうが罪深く、多くの人を傷つけていたと私は思っている。
虹の下を通ったら虹色になったという設定は、なかなかの名案にも思えるし、黒のままにするとしても、奴隷制度との連想を断ち切るスタイルを考えることは、デザイン王国オランダならばそれほど難しいことには思えない。なぜ今こそ国を挙げてデザイン力を投入しないのかと、不思議でもあった。オランダ人が得意なコンセンサス力を持ってすれば、もっと早くに良い解決策が生まれていただろうに。

街角で、ブルー・ピートを見かけた。なかなか前衛的でシュールな感じ。センスが悪いとださくなりそうだけれど、この子はなんだかイカシテいた。唇の緑がポイントだ。

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そういえば今年は、オランダ奴隷制度廃止150周年だった。
夏には記念式典が開かれたばかり。

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photo © studio frog