Vincent van Gogh 3 (from update-NL)
「ファン・ゴッホほど、人生が脚色されて語り継がれ、人々の好奇心をかきたてる芸術家は希だ」(クリス・ストルワイク)
1890年7月27日、フィンセントはオーヴェール・シュル・オワーズで自らをピストルで撃ち、その2日後、弟のテオが見守る中息を引き取った。左の写真は、人生最期の70日を過ごした下宿の部屋。当時の雰囲気に再現されている。
1853年4月30日、グロート・ズンデルトというオランダ南部の小さな町で長男として生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ。その誕生から4年後の1857年5月1日、フィンセントを生涯支えた弟テオが生まれる。画商となったテオは経済面と精神面で兄を支え続けたが、持病の悪化が原因でフィンセントの死後半年後に亡くなった。
子供のいる娼婦と同棲していたり、自分の耳を切り落とすなど、エキセントリックな逸話が多いファン・ゴッホを、私たちはついついドラマチックな色眼鏡越しに見がちだ。そんな彼の人生について、ファン・ゴッホ美術館の学芸員長クリス・ストルワイク氏は次のように語る。
まるでロックンロールのような、アウトサイダー的な生き方
クリス・ストルワイク:
フィンセントにとって、弟テオは絶対無二の重要な存在でした。
書簡を研究していくとわかりますが、文通が始まった最初期の頃はフィンセントは文字通り兄で、テオは弟でした。その後、テオが経済的な援助をするようになると力関係は逆転していきます。しかしフィンセントが努力の末に才能を開花し、テオも兄が素晴らしい芸術家であることを確信し始めると、彼らの関係はお互いを尊重しあう同等なものへと変化していきます。ふたりの間には深い理解と信頼がありましたし、テオなしでは芸術家フィンセントは存在し得なかったでしょう。
では、なぜテオはあそこまで兄を援助したのか。その兄弟愛についてはさまざまな見方があります。
しかし実際のところは、こういうことではなかったかと思うのです。
彼らはオランダ南部の保守的な村の出身です。そこはカトリックの村でしたが、ファン・ゴッホ一家は少数派であるプロテスタントでした。つまり社会的にはアウトサイダー的な存在だったのです。
フィンセントは長男でしたがご存じの通り難しい人柄で、父の亡き後は、次男のテオが家長としての役割を果たしました。テオは、「アウトサイダー的な存在である我が家から、この上社会の脱落者を出すわけにはいかない」と考えたに違いありません。その気持ちが、兄を支え続けたのだと思います。保守的なモラルを持つ当時の社会ではとても自然な考え方です。
このようなふたりの特別な絆、そして激しい生き方や死に方は、強烈に人々の興味を引きます。彼は精神病でしたから病状を考慮せずにその奇行を語ることはできませんが、本質的にアウトサイダー的な人物であったことは確かです。「人付き合いは苦手だ」と、自分でも言っています。フランスでは同時代の画家たちとは交流はありましたが、彼はその芸術の中心の地からは距離を置いて暮らしました。難しい人柄や不安定な精神状態が理由のひとつです
しかしだからこそ独自のスタイルを追求していく結果になった。同時代の印象派、ポスト印象派の画家たちとは決定的に異なる画風を確立しました。そして圧倒的なオリジナリティーを生み出しています。比較的ソフトでぼんやりとした印象を与える当時の主流のスタイルとは違って、ファン・ゴッホの作風は非常に強いボルトな印象です。モチーフもきわめて日常的で、瞬時に網膜に焼き付くような絵。それは、芸術論が全くわからない子供のこころにもしっかりと響きます。
ファン・ゴッホの根強く幅広い人気は、このダイレクトな画風と、アウトサイダー的なライフ・ストーリーが支えていると言えるでしょう。
その上Live fast,die youngというロックンロール的な生き方は、時代を超えて若者の心をも魅了します。
つまりファン・ゴッホは、常に次世代の若いファン層を開拓し続ける特別な芸術家なのです。